2013-05-22 Wed
著者は、きちんとした会社(元は某公団だった)の社員ではありますが、うつ病で仕事をよく休みます。またお酒も大変好きなようで、実によく飲む話が出てきます。
この本はそんな日常を綴ったエッセイと小説からなっています。
おやっと思ったのは、1984年の梅雨のころ、川崎彰彦の「夜がらすの記」に出会い、かつてない感銘を受け、作者に会いに行ったというところです。その後川崎が出していた「たけやぶ」という小雑誌に寄稿するようになり、やがて自分も文章を書くようになるのでした。
2013-05-22 Wed 19:09 | 古本
2013-05-20 Mon
植草が晩年の日々に書いた単行本未収録のエッセイを集めたものです。
冒頭の「退屈の利用法」は、亡くなる直前まで入院していた病院で、1冊90円のノートに書き続けていたものでした。そのなかの一節から、
「何もすることがないから寝てばかりいると、少年時代の思い出がしきりに頭のなかに浮かんでくる。そのうえ思い出には、何十年も前に読んだ幾冊かの本が結びついてくるのだった。」
最晩年のものなので、寂寥感が漂っています。
2013-05-20 Mon 20:20 | 古本
2013-05-08 Wed
この時点で吉岡が出していた3つの詩集に、未刊詩篇を加えたものから編まれています。なかでもH賞を受賞した第3詩集「僧侶」については、全篇収録されています。この本の帯には、詩壇に最大の波紋を投げた問題の詩集僧侶全篇収録と書いてあります。「僧侶」の一部を紹介しましょう。全部で9連あるのですが、最初と最後を。
1
四人の僧侶 庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形 憎しみもなしに
若い女を叩く こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自瀆
一人は女に殺される
9
四人の僧侶 固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので 世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる
2013-05-08 Wed 17:20 | 古本
2013-05-03 Fri
黒田の、「ひとりの女に」、「失はれた墓碑銘」、「渇いた心」、「小さなユリと」、「時代の囚人」と言った詩集から編まれたものです。
木原孝一が、冒頭で「黒田三郎論」を書いています。「失はれた墓碑銘」について、ここに収められている詩が、1938年から42年までに書かれたものであることに言及したあとで、この時代は、モダニズムによる偽装か、リリシズムへの逃避か、この二つの道しか考えられなかった時代であったとし、この時代に書かれた詩を中心として世に問うなどと言うことは、黒田しか考えられないといっています。また、「時代の囚人」については、戦前の多くの詩が持っていた、観念の犠牲としての詩と、いわゆる文学的解決としての詩を、はっきりと拒否して書かれたものとして、私にとっては貴重な価値を持っていると書いています。つまり時々の時流から外れたところに位置していたということなのでしょうが、特に難解ではなく、テクニックが凄いというわけでもないと思います。実際、かつてフォーク歌手が、彼の詩をよく取り上げていましたし。
「死のなかに」から
ぼくのお袋である元大佐夫人は
故郷で
栄養失調で死にかかってゐて
死をなだめすかすためには
僕の二九二〇円では
どうにも足りぬのである
死 死 死
死は金のかかる出来事である
2013-05-03 Fri 18:56 | 古本
2013-05-02 Thu
昭和33年に早稲田を卒業した川崎は、北海道新聞社に就職し、函館支局に赴任します。その後昭和42年に退職し、大阪に移り住むことになります。学生時代のことは「ぼくの早稲田時代」に書いており、会社を辞めたあとの生活については「夜がらすの記」に書いています。
この本は、函館時代のことを、「折り折りの小冊子のもとめに応じて書き散らした」文章をまとめたものです。こんなことを書いています。
「くすんだ野ざらし色の西部。『時』の死に絶えた函館、足かけ十年間、私はこの町に、限りない愛着と、いらだちに似た反撥とを同時に抱き続けた。ちょっと気取っていえば『愛と憎しみの街』である。もっとも私のような性癖の男には、地球上どこへ行っても、そこが愛と憎しみの対象になるのだ。」
跋文を長谷川四郎が書いています。
2013-05-02 Thu 17:22 | 古本
TOP | 56-60/140件表示 12/28ページ : <前のページ [ << 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 >> ] 次のページ>