2014-01-31 Fri
この詩集は、最後の詩集で、この詩集が編まれた時点で、菅原は入院中でした。菅原は、この詩集が出た年の3月31日に亡くなっています。
「風の日」から
女の子が遊びにきて
おとなしく腰かけて
じっとこっちを見ている
ぼくも黙って子供をみている。
すると、ふいに立ち上って
僕の肩を揉みはじめた。
学校で先生の肩を揉んであげる。
そしたら
いつもほめられる、という。
そうか、
そんなことがかなしくなるのか。
年というものの
この細い点線をたどってゆくと
すべてそうなるのか。
もういいよ、とぼくはいう
2014-01-31 Fri 17:39 | 古本
2014-01-29 Wed
小説とも評論とも随筆ともつかぬ7篇が収められています。解説で山田稔は、「威勢のいいもの、颯爽たるものを信頼しない。一切を疑い、しかし絶望はしない。この立場を彼は『ニヒリズム楽天主義』と名づけた。『ごつごつした、厄介な、片の付きそうにない、難儀なもの』への強い関心が、富士正晴の仕事の全体を貫く太い線として今日にまで及んでいる。」と書いています。本書にも、これは縦横に現れています。輯中のある一篇はこんな終わり方をしています。
「これで歴史小説を書いたつもりなんですか?」
「いや、書くつもりではおったんやが、気がついてみると妙になってたな」
「では何です、これ?」
「歴史にかかわり合うてしんどかったという私小説かな?」
2014-01-29 Wed 17:12 | 古本
2014-01-08 Wed
これは著者と、その師であった由良君美との関わりについて、由良の家系に遡り、また師と弟子の関係について、ジョージ・スタイナーや山折哲雄の著作を引用し書かれたものです。
70年代から80年代にかけて、東大駒場のキャンパスにあって、由良は一世を風靡したカリスマ教師でした。四方田は、その由良の優秀な弟子でしたが、ある時期由良から疎んじられるようになります。かつて心酔していた師であったが故に、おそらく受け入れがたいものがあったのでしょう。そこで著者は、由良を知る者に会って話を聞き、由良の家系まで調べてその人となりを理解しようとします。その結果、次のように書いています。
「自分があまりにも彼の当時の心情を蔑ろにしていたことに思い当たったのである。わたしは弟子の観点から師を仰ぎ見ることに懸命であって、師の側に立って弟子を見るという発想をまったく持ち合わせていなかったのではないだろうか。」、「わたしは自問する。はたして自分は現在に至るまで、由良君美のように真剣に弟子にむかって語りかけたことがあっただろうか。弟子に強い嫉妬と競争心を抱くまでに、自分の全存在を賭けた講義を続け、ために自分が傷つき過ちを犯すことを恐れないという決意を抱いていただろうか。」
2014-01-08 Wed 17:26 | 古本
2014-01-07 Tue
これは、1967年死の1年前に書かれた、最後の長編です。ストーリーは、世界が氷河期に向かい人類滅亡の危機が迫る中、主人公が一人の少女を追っていくという話ですが、お話で読ませるというものではありません。
翻訳者のまとめにあるように、作者は、自身の個体としてのフィジカルな死と、存在論的な死をみつめるメタフィジカルな視線、そして、それらに対峙する(もしくはそれらを包摂した)氷=外世界の終末という三つの視点を持つ、神秘的な現実=幻想空間を提示しています。
主人公は、「私にとって、現実というものは常にその量を計り知ることのできない存在であった。」と呟きますが、これは作者そのものの独白でしょう。
「生命と無機質の結晶に屈服し、窓外にはただ、死の極寒が、氷河期の凍れる真空が広がっているばかりだ。時間と空間が飛ぶように過ぎ去っていく。ポケットの中の銃の重さが心強い安心感を与えてくれる。」ということで、この作品は終わっています。
2014-01-07 Tue 17:32 | 古本
2014-01-07 Tue
著者は、古本に関する多数の著作がありますが、昭和44年から、平成4年まで創元社に勤務していました。
あとがきに代えての中で、「私は今でもときおり憶い出す。大阪市北区樋上町にあった木造二階建ての旧社屋のことを」と書いていますが、内容は、創元社で働いていたときの思い出や、創元社の歴史についての記述は少なく、創元社が出していた本や、創元社にまつわる人々(小林秀雄、青山二郎、隆慶一郎、佐古純一郎、丸山金治、東秀三、保坂富士男など)が出した本について書いています。 同じ著者のほかの著作と同様に、1冊の本から次々と話が展開していき、ひとつの項目が終わったあと、追記もあるというスタイルで書かれています。
2014-01-07 Tue 17:09 | 新刊本
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