Renkei日記 - 八十島法律事務所

2013-12-03 Tue

葛西善蔵集  (新潮文庫)  昭和26年5月25日刊


 山本健吉選による、代表作10篇を収めたものです。
 彼は、明治20年に弘前市で生まれ、父親の事業の失敗により、2歳から5歳まで、寿都で生活し、学校を出たあと、16歳から18歳まで、岩見沢で鉄道の車掌をしており、北海道に縁のあるひとでした。
 大正元年26歳ころから作品を発表するようになり、代表作「子をつれて」は32歳のときの作品です。38歳ころには、自分で原稿が書けなくなり、牧野信一や嘉村礒多が口述筆記をします。そして、昭和3年42歳でなくなりました。
 牧野の口術筆記で書かれた「椎の若葉」から
「椎の若葉に光りあれ、僕はどこに光りと熱とを求めてさまよふべきなんだろうか。我輩の葉は最早朽ちかけてゐるのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分かを僕に惠め。」

2013-12-03 Tue 19:00 | 古本

2013-12-03 Tue

高木護 「川蝉」 (脈発行所)  2013年2月18日刊


 これは、熊本で発行されていた「詩と真実」に掲載されていたもので、1949年から1953年の間に書かれた4つの短編が収められており、1974年に一度出版されています。
 発行者の比嘉加津夫は、この作品集について、「無名で暗い闇をかかえている文学青年の、ある意味で文学に対して純粋に向かっていくひたむきな輝きがあるのである。」と評しています。
  「酒」から
 「私は文学の勉強よりも、酒に忠実に仕えるために苦労を重ねた。くさぐさの懊悩をねぎらうために酒となり、酒盃を何十杯と重ねている中に、その酒が酒のための酒となってしまうのであった。」

2013-12-03 Tue 18:30 | 新刊本

2013-12-02 Mon

安原喜弘 「中原中也の手紙」(講談社文芸文庫) 2010年4月9日刊


安原は、昭和3年の秋に、大岡昇平の紹介で、中原に会い、以後中原が亡くなるまで、唯一交際を続けていました。よく知られていているように、中原は、酒を飲んでは誰彼の見境なくからみ、彼の周囲の者たちと次々と喧嘩をし、友人達は彼の元から去っていきました。それはまったく痛ましい眺めであったと安原は書いています。
 この本は、昭和5年5月から中原が亡くなる直前の昭和12年10月までの中原から安原に宛てて書かれた手紙100通と、それに対する安原のコメントで成り立っています。最初これは中原がなくなって3年後の昭和15年10月から、同人誌「文学草紙」に連載していたものですが、当時、「我々詩人の友人の間では、彼について触れることはある意味で一種のタブーの感があった。」と書いています。中原が詩人として評価されるようになったのは戦後になってからでした。
 安原は「とにかく私にとって中原との交遊は、したがって中原との出会いは、決して楽しいものではなかった。思い出は辛く、心重い日々の連続である。この間に私はいつしか文学志向を捨て、筆を折った。」と書いています。

2013-12-02 Mon 17:39 | 古本

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