2012-05-30 Wed
「詩のこころ・美のかたち」をより詩の鑑賞のために特化した内容となっています。
詩は間違っていなければならない
詩ははみ出し落ちこぼれものだ
詩は言葉の対比で生まれる
詩は吃驚させるものである
詩はモンタージュである
小さきものに詩はある
限りなく遠いところに詩はある
詩は異端である
こうして目次を書き連ねるだけで、一篇の詩のようです。
杉山氏は、この本を書いた理由について、「もとより読者が少数であることは詩の誇りなのだが、こんにち詩の書き手にしか読まれていないという、あまりにも自家中毒気味になっているので、この狭く小さいところに入り込んでいる詩の仕切りをはずして、広いところへ開放させたいのである。」と言っています。
2012-05-30 Wed 17:26 | 古本
2012-05-30 Wed
芸術とは何か、詩は何を表現しようとしているのか、美しいとはどういうことなのかを、模倣、浄化、リズム、反復、一瞬、永遠、隠微といった19の観点から、実際の作品をもとに示したものです。例えば、
真似とか、模倣による追体験は、そのまま感動の表現である(模倣)
我々は、しばしば芸術的感動を語るとき、それが深ければ深いほど、いつの間にか音楽的表現を用いていることに気付くことがある(リズム)
反復への喜びは、人間の本源的なものに触れつながる、深い感情である(反復)
抽象図形に、こころの内面の、とらえどころのない、かたちのない気持ちが、顕在化されてくるのである(装飾)
物そのものを、別の意味にとる抽象化、観念化の作業こそ、芸術の創造というものに他ならない(象徴)
国語の試験に使えそうだと思いました。
2012-05-30 Wed 17:22 | 古本
2012-05-29 Tue
この本は、昭和27年9月10日に審美社から出された「ミラボー橋」に、それ以降に書かれたものをまとめて1冊としたものです。杉山氏は、「詩がどうあるべきかを考えるにつれ、私は詩を作るために自らをひどくゆがめなければならないのに次第にくるしくなってきた。そして自分がもっとも素直に自分であるために、これら数々の散文を試みてみた。」と書いています。
「隠す」という文章から
生きるというのは、隠すということである。言葉は、隠すためにある。言葉は衣服である。しゃべったり、書いたりするのは、自分がいかに立派であるかを見せるためである。書くことは自分を隠す喜びである。嘘は表現のはじまりである。隠すべきなにものもなくなったとき、僕はどうしようかと思う。
2012-05-29 Tue 18:03 | 新刊本
2012-05-29 Tue
杉山平一氏も、去る5月19日にお亡くなりになりました。この詩集は、昭和18年に出されたもので、平成19年に判型を小さくして復刻されたものです。
「町にて」から
ジンタなんかより 花火なんかより
日曜日の街に若い父母と一杯の子供達をつめて走っている
自動車の中や
暗い街を轟々と人々をつめて走って来る
明るい市内電車の中の方が
もっとずっと賑やかで
もっとずっと物悲しい
ご冥福をお祈りします。
2012-05-29 Tue 17:59 | 新刊本
2012-05-21 Mon
これは、加藤氏の残した作品の一つですが、前衛句集です。彼は、この本で、この作品は、「句であって、俳諧でも狂句でも一行詩でもない。意味なんてどうだっていいのである。位牌のごときもの、云わんとしている事柄が、有耶無耶のうちに立ち消えになりそうでゐながら、どうにか記憶されるといふ虫の知らせ的な恩寵で立ってゐる」と書いています。
その句とは、
ひなぎくくさりす金敷ものはキリエかな
あひるの家でなんまいだかを衍字まる
πするいつまで草の小墓な春
破門ずオルガンだーらの蛆拾遺よ
漏斗す用足すトマスアクィナスを丘す
姦字は忸怩る葉がくれなゐの股晴れ
私はすばらしいと思いますが。
2012-05-21 Mon 18:54 | 古本
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